いつかの現在地

2019/8/30引越し

日記9

2月○日(前期選抜前日)


せっかく学校で友達を過ごして楽しい気分で帰ってきても、家に帰れば、いつもの言い争いが待っている。



ほら、僕の言いたいことなんて全然伝わってないじゃないか。聞かなきゃ。


仕事ばかり。体が痛い。休みがない。心配が絶えない。


そりゃストレスがたまるのは分かる。頑張っている人は疲れるしストレスもたまるんだよ。だから僕はあんまり頑張ることをしないんだよ。余裕がある人がいなきゃ。みんな飽和状態じゃ、前みたいになっちゃうし、受け皿が必要なんだ。


おばあちゃんやお母さんが苦労して頑張っているのは分かるさ。おじいちゃんにたくさんしてあげているのに見返りはなく、してもらっている本人はそれに気付かずあげくには逆恨みなんかされて。聖人じゃないんだからそれで我慢できないのは分かる。

でも要素はそれだけじゃないんだよ。おじいちゃんがコミュニケーションが苦手なのは知っているだろ。話しかけてくることさえ稀で、会話も続かない。育ってきた環境のためか基本的に人づきあいが不得手。おばあちゃんがあらゆる手続き、契約、計画、所事務を一手にこなしてきたから、おじいちゃんには経験がない。


一方で、ご飯は人一倍食べる癖に文句を言い、仕事もせずにコタツに入って1日を過ごし、体調を崩せば自分は看病してもらうのに、おばあちゃんが倒れても無関心。いくら呼んでも知らんぷり。とくりゃ怒るのももっともかも。

嫌みの一つどころか五つ六つも言いたくなる。

お母さんとおばあちゃんはもう無意識のうちに、おじいいちゃんの発言にあらさがしをし、その行動の非常識な点を指摘して正論を振りかざす。執拗なまでに。それらはおじいちゃんの自分勝手な行為が原因で引き起こされたもので自業自得。

もともとコミュニケーションができないおじいちゃんは、自分を虐げ邪魔するそれらに憎しみを抱き敵視する。それが正論であるないは関係ない。ただ、自分に不快感を与えるものに怒りを覚える、それだけのこと。

その敵が毎日ご飯を作ってくれ、洗濯もしてくれ、風呂も用意してくれている現実。それを当然のこととする意識。その不自然さを分からせるための訴えと行為。何食わぬ顔で隠し持っていたインスタントラーメンを取り出し、勝手気ままにやるおじいちゃん。

やがて、ガスコンロを壊され止むなく、おじいちゃんの謝罪の一言を聞いて、また揃っての食事に戻る。
繰り返す。また繰り返す。進歩はない。その謝罪の真意は、カップめんや市販の総菜にはもう飽きたからという考え。
で、また繰り返す。そりゃ当りまえ。


伝わらないのに声に出す。伝わらないから、悪口だと受け止める。伝わらないからさらに腹が立つ。

もう無理。伝わらないと分かっているけど言わずにはいられず、言えばお互いがお互いの溝を深める。


解決はできない。どうしようもない。ただ言うだけで、聞きはしない。もう終わりは死しかない。おじいちゃんが死ぬことでしか終結しない。それしかないのか。本当にそれしかないのか。


人を思いやることのできない祖父。40年間の苦労の見返りを求める祖母。冷酷。嘆き。憎悪。敵視。終わらない。止めようもない。どうにもできない。




明日は国公立大学の前期選抜なのに。そのことの気負いなんてほとんどなくて、ただ下から聞こえてくる、祖母の叫び声と戸をバタバタと開け閉めする音が心配だ。二日間僕が家を留守にするせいか、今日はいつもよりも激しいようだ。さっきトイレへ行ったついでに様子を見てきた妹の話では、祖父は腕に包帯を巻いているらしいし。はぁ、今日こそは取り返しのつかないことになるんじゃないかと心配だ。はぁ。