いつかの現在地

2019/8/30引越し

命はみな平等


「命はみな平等だ」

「いかなる事情があろうとも人を殺してはいけない」



それは正しい。
人が存続していく上で確信するものとして、その姿勢はすごく正しい。

殺人事件のニュースのコメント欄に書くものとしては反論しようもない模範解答。
ある種の権威すら帯びている。


しかし、その圧倒的な正しさの前で、それだけでは納得できない現実もある。




90歳の寝たきり老人と9歳の子供。

その命は等しいか。


まだ生きるかもしれないし、明日にも死ぬかもしれない。
いつかは消えゆくという意味で、二つは同じ。



酒癖女癖浪費癖で生涯家族に迷惑をかけ続け、老いてもまた認知症になり家族を苦しめる、皆に軽蔑され誰からも求められていないお爺さん



たくさんの友達がいて何人もの人から愛されている、妬まれることも喧嘩になることもある、不安も問題も希望も抱えた中学1年生。


その命は等しいか。

命は平等。
前者の死と後者の死は同じ重さ。


だとしたら、
その中学生の命が失われた時、悲しみにくれる人、病にかかる人、絶望から自殺する人。
その人たちの命はどうなのか。

その命と繋がっている命を含めて、
誰からも求められていない老人のそれと全く同等な重さなのか。

その命につながっている「命の平等」はそれで成し遂げられているのか。


当前だ。
命は平等だ。どんな理由があっても殺人は許されない。

まったくもって大正解だ。
そのおかげで今の秩序や心地良い毎日が成り立っている。
それを持ったまま生きていくのが正解であるということに疑いはない。






だけど、

その心地よい正解が妬ましくて踏みつぶしてしまいたくなるような現実がたまにある。



誰からも愛されず求められず、そこに彼がいることを誰もが嫌がり、誰もが彼のことを軽蔑する。
殺すなんてことはできない。施設に入れる金もない。認定を受けるには軽すぎる。


みな思っている。

「あともう少しの辛抱だから…。あともう少し…。あともう少しで」



誰からも必要とされず、叱られ嫌われ食べて出して寝るだけの彼が。
早く死んでほしいと、切実に願われている彼が。

こんなに汚くて嫌われて軽蔑されて面影を失っていく様は。


ひたすらに悲しくて、やるせなくて。

それでも、家族は疲れ果てていて。


望まれない命が、周りの命をすり減らしていく。



彼は決して、どうしようもなく救いようのない悪人ではなかった。

一方で、家族が幾度となく繰り返してきた365日もまた重かった。





フィクションではなく、映画ではなく。
はかりにかけて選ばなきゃいけない場面がたまにある。


だから、

「命は平等だ」
「どんな理由があっても殺すのはだめだ」

そんなコメントをしている人たちを見ると、少し妬ましい。