いつかの現在地

2019/8/30引越し

分からないからイライラする。子供の泣き声もバス内での電話も。

柔軟性があるように見えて、実は硬い。

本当は芯が無くて、すぐ揺らぐ。


自分を揺るがすものに恐怖といら立ちを感じる。

そういうものは否定したがるし、目の前から遠ざけたい。

それは当たり前のことかもしれない。そしてきっと必要なことでもある。




なぜだ?うらやましいからか?



いきなり、多分それが答えだ。

そうしたかったわけじゃない。ただどこかで、そんな選択は自分には選べなかったということが響いている。


自分とは違うと感じる、その子やその人たちに抱く、動揺と不快感。


それを受け入れることができるか。自分にないものを持つ彼彼女らを、遠ざけず、否定せず、受け入れられるか。

自分には見てこれなかったものを見てきた彼らを。






結局、

自分が相手を受け入れることと、自分が相手を受け入れることは違う。
なんてそんなのは当たり前のことで。

自分はそれを許すのに、相手は自分を許してはくれないし、自分にすら否定される。

自分は相手を受け入れて、相手は自分を拒絶し、自分も自分を拒絶する。


なんだそれは。そんな神や仏のようなことができるような人間がいるのか。生きていけるのか。


いや、そんなことは神や仏だってしない。彼らは拒否するし断罪もするのだ。




一人の人間がそんなことを続けて、壊れずにいられるはずがなかった。