過去を連れて
残っている時間。
今ある全部とこれから全部を使って、前に進みたい。後ろじゃなくて前に。過去を連れて。
「過去と生きる」ことと「過去で生きる」ことは、きっと反対のことだ。
続けていると間違えそうになって、だからときどきここに戻ってくる。
「過去で生きる」こと。
私にはこんな苦しいことがありました。こんな辛い過去を持ってますって。
私はこんな凄いことをやりました。こんな輝かしい過去を持ってますって。
別に言っていいじゃん。言っていいです。
それで少しでも気持ちが楽になるなら。前を向けるなら。
その栄光は確かにあなたが掴んだものなんだから。あなたが頑張った証なのだから。
でも、例えば、ひとより少し辛い過去があったとして。
それだけを切り札にして生きていたら、自分よりもっと辛い過去を持ったひとに出会った途端に自分には何もなくなってしまって。
辛さや苦しさを競いたいと思ってしまう気持ちを否定はできないけれど、そのトーナメントを勝ち抜いていくことにはほとんど何の意味もない。
そんなものを勝ち抜こうと頑張る時間があるなら、一つでも多く前向きなものを残すことに使いたいと思うし、
かといってそうやって美しげな決意をしたところで救いようのない現実は依然として目の前にあるし、
もちろん辛いのに笑えなんてそれは違うと思うし、
ぐるぐる回って答えは出ないけど、
過去をとっておきのアイデンティティみたいに持ち歩いてみても、そのカードじゃ勝てない相手なんてごろごろいて、結局自分が道を外してもいい理由にはなってくれない。
輝かしい栄光は、それはもちろんあなたが頑張った成果だし誇っていいと思うけど。
その栄光まで自分を運んできてくれたその歩みは、額縁を磨くことに心を注いでいる間は、止まったまま。
拙いことを分かっていて、それでも全力を出して応えることと
拙いことを分かっていて、それなのに全力を磨く努力をしないことは、別の話で。
かみしめる時間は必要だけど、
過去にぶら下がっているだけでは、前に進めない。
「過去と生きる」こと。
今までここまで出会った全部のもの、こと、ひと、時間。
今までここまで生きてきてくれた全部の自分たちに、応えるために。
自慢話みたいに苦労話みたいに、全部を語って伝えるんじゃなくて、
全部があってここにいる「いま」の自分で示そうと。
でも、現実は綺麗事じゃないから、「ない方がよかった」こともやっぱりあって。
知らなければ、起きなければ、出会わなければ、あの時あんなことしなければって。
辛いこと、悲しいこと。
痛み、恨み、怒りや後悔。
ううん、違う。
それを全部、力にする必要なんてない。ないよ。
もちろんそんなことが出来たならそれは素敵なことなんだろうけど。
嫌なものは嫌だし、痛いものは痛い。負った傷全部が治るとは限らないし、そのせいで今もまだ足を引きずっているのかもしれない。
痛みや辛かったこと全部を、
「あのときあれがあってよかった」なんて、今の自分が訳知り顔で、無理矢理明るい色に塗り替えてしまう必要なんてない。
暗い色は暗いままで。嫌なものは嫌なもののままでいい。
だけど、それがあって「いま」の自分はここにいる。
ずっと自分が目指してきた「こう在りたい」は、そういう生き方で。
それはどちらかというと「過去と生きる」ということであって、
「過去で生きる」ということじゃなかった。はずなのに。
続けていると、ときどき分からなくなって。
だからこうして、ここに戻ってくる。
もう忘れてしまった時間や一日はたくさんあって。
もう二度と思い出すことのない時間や一日もたくさんあって。
それはきっとこれからも増えていく。
でもだから、目指して、立ち止まって、引き返して、また歩きはじめ続ける。
そういう「いま」の自分で。
いつも、さいごまで。