いつかの現在地

2019/8/30引越し

アンチアンチ論

  
ネットの評価とか、他人の意見とか。「そんなの気にするな」とか言っても、
そういう意識を持って向かわなきゃいけない時点ですでに影響を受けていて。
  
先日、好きな作品がネットで叩かれてしょんぼりしてる同僚の姿を見ていて、思うところがあったので。
 
わたしなりの対アンチ論
アンチアンチ論をまとめておきたいと思います。
 
 
 
 
1 正論との戦い方
 
アンチと戦う上で「クソ」とか「ゴミ」とか言ってるだけの浅いものはスルーできても、「確かにそうかもしれない」「合ってるっぽい」ことを述べている意見がやっかいなのではないでしょうか。
 
例えば、  
・心理描写がなさすぎて感情移入できない
・展開が急すぎて意味不明
・○○なのに、××とか矛盾してるだろ
・話がワンパターンでつまらん
・作画が酷すぎ
・円盤の売り上げwww(数字提示)
 
みたいな、一見正論っぽいアンチが強敵なのではないでしょうか。
特に、具体的な数値を出しながら意見してくるアンチが非常に難しいです。
 
果たしてこの手ごわいアンチたちとどうやって戦うのか。私の答えはこうです。 
 
 
戦えない。戦う必要がない。
  
そんなの戦っても意味ないです。つうか勝てません。
 
そういう冷静っぽいアンチは大概正しいこと言ってます。
相手の間違いや思考の穴を突こうとか、がんばって反論しようとするだけ無意味です。
  
 
食べ物で考えると分かりやすいです。 
 
例えば、私は納豆が好きです。
そこに誰か納豆がめっちゃ嫌いな人(納豆アンチ)が来て、
  
「臭い!」「腐ってる!」「ネチャネチャする!」
と声高に主張したとします。
 
さて、上の納豆アンチの言い分が間違っているかというと、別に間違っていないです。だいたい合ってます。
そして、その間違ってない納豆アンチの意見によって、自分の「好き」が脅かされるかと言われると、別にそんなこともありません。
 
何が言いたいかというと、結局のところ
好みの問題でしかない。ということです。
  
上とか下とかじゃなく、優とか劣とかじゃなく。
自分が好きか嫌いかというだけの話だということです。
 
「臭い」と感じるか「匂い」と感じるか。それも人それぞれです。
 
例えば、ある友人はお刺身が食べられないし、カレーが大嫌い。
じゃあ、果たしてそれを持って刺身はゴミ食べ物か、カレーはクソ料理か否か、などという議論はほんともう無意味です
 
誰かにとっては美味しい。誰かにとっては不味い。
別にどっちも嘘なんかついてない(重要)
 
なのに刺身とカレーどっちが良い料理か悪い料理かなんて考えるだけ無駄です。
 
 
ただし、これが料理人(作品の提供側)ならば、話は別です。
提供者は、よりたくさんの人に好きと感じてもらえるものを探っていかなければなりませんが、
ただ、それを食す(見る、読む、享受する)側なら、そんなものは些細なことです。
(円盤の売り上げが2期制作に影響するとかグッズ展開の有無とかぶっちゃけ関係ある)
 
他100人がクソまずいと評したスープを、自分は飲んで美味しいと感じました。
わざわざ他人に合わせて「まずい」と感じなきゃいけない?思わなきゃいけない?
 
そんな必要があるでしょうか。いやない。(病院にいく必要はあるかもしれない)
 
  
自分が美味しいと感じるもの。好きだと感じること。
享受者として、それ以上に重要なことなどありません。
 
 「好き」「嫌い」「つまらない」「おもしろくない」だけならそれは大した問題ではありません。「好き・嫌い」と「良し・悪し」は別のフィールドです。
 
だから別に、アンチの言い分が正しくてもいいんです。
 
なのに、アンチ相手に一生懸命相手の間違いを探そうとするから、ただの煽りや考え不足のアンチは撃退できても、正論持ちこんで向かってくるアンチに対して、ぐぬぬ…ってなって。
しまいには、「嫌なら見なきゃいい」とか、「たかがアニメに何ムキになってんの」みたいな、しょぼい論点ずらしで逃げなきゃいけなくなります。
 
アンチに自ら戦いをしかけていくメリットなんてありません。
いくらアンチを撃破しても自分の時間とエネルギーを消費するだけで「好き」は1ミリも増えません
 
それどころか、アンチを倒しに行っている間、出された料理はどんどんぬるく、冷めていきます。そいつをぐぬぬ…させることにどれだけの意味があるのか、一度立ち止まって考えたらちょっとだけ冷静になれます。
 
  
正論との戦い方まとめ
 「あーなるほど確かに。でも、私は好きです。」(完)
 
これで終わりです。
 
良い悪いの議論ならともかく、そいつがそいつの味覚で好きって言ってんだから、もうそれ以上どうしようもないです。
 
とはいえ、わざわざ自分の目の前に立ちふさがって食事の邪魔してくる暇な人もいるかもしれません。
その時は、視界に入らないようにする(ブロックする)とか、店員さん呼んで追い出してもらう(通報する)とか対応する必要はありますし、場合によっては戦わねばならないこともあるかもしれません。
 
ただ、少なくとも、
自分と違う考えを持った人を見かけるたびに、わざわざ自ら戦いをしかけていく必要なんて1ミリもありません。
 
ましてや、ただすれ違っただけの人を呼び止めて、その人の気持ちを自分と同じに修正することに何の意味もない。互いの時間の無駄です。
 
自分が食べて美味いと思ったラーメンを、どうして隣で食ってただけのやつに「このラーメンは絶対に不味いんだよ!お前も不味いって言え!思え!」って強制されなければならないのか。矯正させられる必要もないし、そんなこと言われる筋合いもない。
 
それでも、中には 
「このラーメンは絶対不味い!みんなそう言ってる!お前の味覚はおかしい!どうかしてる!異常だ!!」
 
って食べてる間も食べ終わった後にまでわざわざ粘着して絡んでくるような人もいるかもしれません。
 
その場合はもうおかしいのはラーメンの味ではなく自分の味覚かその人の頭かのどちらかなので、もはや論点はラーメンの味ではありません。お店の外に出て救急車か警察を呼びましょう。
 
 
 
 
2 そうは言っても簡単に割り切れない
 
は?それじゃあ、何? 
 
美味しかったら美味しいって言っていいけど、不味かったら口に出さず我慢しろってことか?
自分が感じることが一番大事とか言っておきながら??一切批判するなと??いいか、良い批判というのは作品の質を高めr(略)
 
 
「嫌い!」とか「面白くない!」って言っちゃいけないのか。
 もちろん、そんなことはないと思います。
   
美味しいって言うのと同じように、不味いって言う権利はあります。
 「つまらない」「嫌い」「面白くない」って言う権利は絶対にあります。
 
上で長々言ってきたとおり、自分は「不味い」と感じたのに他人に合わせて「美味しい」って矯正される筋合いだってないんです。別に全然言っていいと思います。
 
 
でも、例えば、偶然それを聞いていた、実はそのラーメンが大好きだった友達からは、次からはもう一緒のお昼に誘ってもらえなくなるかもしれません。
 
だって、せっかく食べるなら一緒に美味しいって、同じものを好きって言ってくれる思ってくれる人と美味しいねーって楽しいねーって言いながら一緒に食べたいもん。
 
 
でも、はたまた逆に考えれば、本当は好きだと思っていないのに好きだと言って相手に合わせて、それで本当に自分も相手も楽しいのかなという疑問もあります。
 
ならば、初めから正直に、実は私はそれが好きではありません。とはっきりと言ってしまった方がいいのかもしれません。
 
  
とは言え、自分が好きなものを「嫌い」とか「面白くない」って言われたら、やっぱり嬉しくないし良い気持ちもしません
 
そりゃラーメンの味程度の話なら別にいいよ。
でも、自分が本当に心から「好き」って思ってるものを「嫌い」って言われたらそりゃ嫌な気持ちになるでしょ? そうですね、当たり前です。
 
 
↓ ネットでよく見るやつ
A「そんなに嫌なら見なきゃいいのに」
B「(嫌って言ってる意見を見るのが)そんなに嫌なら見なきゃいいのに」
 
ぶっちゃけ同じです。不毛です。
 
否定的な意見をどんどん見たいなんて人はいません。嫌なものは嫌なんです。
 
だから例えば「本当はあまり好きじゃないけど、好きな人が聞いたら嫌な気持ちになるだろから、わざわざ言う必要もないよな」とか。
もっと直接的に「好きだって言ってる友達と仲悪くなりたくないし黙っておこう」とか。
「「嫌い」より「好きじゃない」って表現の方が配慮があるかなぁ」とか言い方に工夫をしてみたりとか。
 
  
自由です。
 
「楽しい!美味しい!好き!」 って言うのと同じように
「面白くない!不味い!嫌い!」 って言う権利はあります。
  
でも、「嫌い!つまらない!!」って言ってる人の周りからは、それが好きな人たちはどんどん離れていくだろうし、
「最高!大好き!!」って言ってる人の周りには、同じように好きだと思う人が集まってくるだろうし、私だったらそんな人とお話したいなって思います。
 
どっちを選ぶか、ただそれだけの話です。
 
言っちゃいけないとか正直に言うべきだ、とか。
どっちが正解、不正解なんてありません。
 
「俺は自分に正直に生きるぜ!自分に嘘はつかない性格なんだ!!」
って、嫌いなものを嫌いだと口にするなら、好きな人たちと仲良くなる機会はどんどん無くなっていくよって。ただそれだけの話なんです、きっと。
 
そして、最初の話に戻りますけど、結局のところは、
 
そんなたくさんの一人の「不味い」と「美味しい」の感想を受けて、どう変えるか変えないか、次どんな味付けにするのかは料理人(作り手)が判断すれば良いんです。
 
 
結局、誰だって好き嫌いはありますし、てことは誰だって心に必ずアンチを持っているわけで、あとはそれを外に出すか出さないか、それだけの話です。

大好きだったものに裏切られたと感じたら、悲しくて悔しくて一言物申したくなるし、物申せば同じように感じている人から共感や同情の反応があるかもしれないしって思うし、
自分が面白くないと感じたもので周りが面白そうに盛り上がっていたらそれはやっぱり何か面白くないし。

だからこれは、「聞いた人が悲しむから悪口は言っちゃいけませんよ」っていう道徳の授業ではなくてただの取捨選択です。
 
だから、自分で選んで「嫌い」と口にしたはずなのに、今度はそれを好きな人たちに「でもどうか僕のことは嫌いにならないで!」って振舞ってる人を見るとどっちだよって思います。
 
別に自由です。
 
 
 
 
3 私の考える「アンチ」アンチ論 まとめ
 
正しさなんて関係ない。大事なのは自分の気持ち。
でも、「好き」も「嫌い」も自分の気持ち。
 
他人の味覚は関係ない。
でも、この「好き」せっかくなら誰かと共有したい。
 
否定的な意見はなるべく見たくない。
でも、その「嫌い」もきっと誰かの自分の気持ち。
 
 
はい、何も解決してませんね。
 
結論。アンチは絶対に無くなりません
好きって思いを肯定しつつ、嫌いだけを否定することは多分無理です。
 
そう。忍者戦隊カクレンジャーの最終話で人間の憎しみから生まれたラスボス妖怪大魔王を斬らず倒さず心の封印の扉の奥に押し込めたように(例えが古い)
 
私たちの心の中からアンチを完全に消し去ることはできないのです。
 
  
だからなおのこと、こう思うんです。
 
自分の「好き」を一番大事にしようって。
自分の感じた「いいな」とか「好きだな」って気持ちを一番大切にしていこうって。 
 
 
嫌いって思っちゃいけないわけじゃない。
嫌いを言葉にするか発信するかしないか、それもまた自由です。
 
確かにアンチは無くならない。
だけど、正論で戦う必要はありません。
好きな理由はそこじゃないからです。
 
自分と違う相手の考えを修正する必要もありません。
好きか嫌いか好みの問題だからです。
相手の嫌いを否定しても自分の好きは増えません。
 
心と時間は限られています。
すれ違っただけのアンチなんか放っておけばいいんです。
 
 
あの人が嫌いだと言っても私は好きなんです。
あの人がクソだと言っても私にとっては宝物なんです。
でも、私にとっての宝物はあの人にとっては多分本当にクソなんです。
 
でも、あの人にとってのクソでも、それはもともと私の宝物なんです。
 
 
気にするなって言ってもきっと無理です。
でもだからこそ、そんなアンチと剣を交えている時間があったら、「自分の好き」を少しでもひとつでも伝えてほしい。 
 
1年後、2年後、10年後、同じ自分でさえずっと同じものを好きでいるとも限りません。でもだからこそ、いま自分が好きだと感じるものを、声に言葉に形にしてほしい。
 
 
いま、自分が好きだと感じたこと、いいなと思ったこと。
それ以上に大切なことなんてありません。
 
 
だからその気持ち、一番大切にしてください。
そんな、自戒を込めて。