父と母と
今日は少し、父と母、それぞれの想いに触れた。
あの頃のみんなは、きっと誰もがギリギリで、でも口には出さなくて。
知らないままで、よかったのかもしれない。
ずっと閉じ込めて、おくべきだったのかもしれない。
何度、子供たちの手を引き、橋から川を見下ろしたか。
上から下から吊し上げられて会社に行けず、公園で時間をつぶした毎日。
今、初めて知るエピソードに、それを聞かせてくれた嬉しさと気付けなかった己の浅さに、
知ったふりをしそうになる自分を抑えながら、素直に、冷静に、いまこの二人に、送るべき言葉を探す。
裏切られて、裏切ってみたりして。
後悔と罪悪感と自己嫌悪を繰り返して。
死ぬとか、死ねとか、それはホントだったけど、でも、こうして今自分はここにいる。
曲がった茎は戻らない。
折れた針は直らない。
伝わらなきゃ意味がないのか。答えがなきゃ評価されないのか。
それらもまた欲しいものの一つではあるけれども、
今と、これからの自分が、示して、見せて、示せなかったもの、見せられなかったものが、
他人にとっては私のすべてで、私にとってはほんの一部で。
救われるためには、幻想を眺めるし、きっとそうだと信じ込む。
現実と違うからと言って、それをいちいち壊して歩きはしないし、それが正しい行いとも思わない。
ただ、いま私がここにいることが、一番手っ取り早く確実な答えであって、それ以上の現実は、多分、彼彼女あなたわたしが、一生を生きる程度の上では必要ない。
分からない。相手にとっての自分も。その反対も。
だから、せめて自分くらいは見失わないようにと、
幻想の中で生きるのです。