佐世保女子高生殺害事件に思うこと。
佐世保女子高校生殺害事件。
メディアの報道やネット上の関心も、一週間経って良くも悪くもようやく落ち着いてきた感じがありますが、メディアフィルター越しの不完全で断片的な情報だけでも、十分にショッキングな事件でした。
感情的になっていろいろ言いたくなるのもわかります。この記事だってそういう気持ちで書いてます。
「○○が悪い!」「○○のせいだ!」と叫んでみたり、「こうすれば防げた!」「○○の怠慢だ!」と結論まで出してみたり。
それが外野の反応です。こんなのは全部自然で当たり前な現象です。いつだって、そんなもんです。
それも分かっていて、それでも、あまりにも浅いなぁと思ってしまいます。
別に、ありふれた一般人がヤフーコメントで好き勝手に浅かったり深かったりする各々の持論を展開したところで、なんとかしたくてもなんともならないし、社会も何も動かないので、そんなのは、自分の時間をどう使うか使いたいかの意味くらいにしかなりません。この記事だって同じです。時間の無駄です。
それでも、何かしらの肩書やら役職やらそういったものを持った方々が、そういう浅くてしょぼいことを力強く熱弁しているのを見ると、何とも残念な気持ちになります。
「父親が悪い」「十分に予兆はあった」「起こるべくして起きた」「ここでこうしておけば防げた」
まぁきっと概ねその通りなのですが、それが全部「概ね」に過ぎないことを分かってて言っているのか、分かってもいないのか。いずれにしても、
そんなことを真剣に真顔で言っちゃえる人がなんでそんなとこにいるのか、そんな場所にいられてしまう現実にげんなりします。
「予兆はあった。十分防ぐ機会はあった。」
この事件を「防ぐ」っていったい何を指して言っているんでしょうか。
被害者の女の子がこんな目に遭わずに済んだということを指して言っているのであれば、それは悪意をもって解釈すれば、代わりに父親が、あるいはほかの誰かが殺されるべきだった。ということになりかねません。
近隣住民関係者ならいざ知らず、そんなことを赤の他人の第三者に言われる筋合いなどないし、こうした事件が起きてそう言われるのはある意味当然でもあります。
「環境のせい」「父親や母親が悪い」
一理あります。ただ環境を良好に保つことでそれを防げるならば、それに類する環境にいる人々にも同じような措置を講ずる必要があるでしょう。
また、その本人にとって良好な環境を保つことが、その環境に属する人々にとって決して良好なものであるとは限らないこともまた忘れてはなりません。
「入院させておけばよかった」「警察に言っておけば防げた」
どこまで具体的なイメージをもって言っているんでしょうか。なんだかパソコンの前に座って言葉だけを追いかけているようにしか聞こえません。入院?どうやって?一体いつまで?永遠に?じゃあ少女にとっての幸せは?考えるに値しない?なぜそう言い切れる?哀しいね。そうですね。
結局、ババぬきです。ただどこに置くかというだけの話で、何も解決などしていません。
倫理も法律も無視して、ただただ今回の事件或いは類する悲劇を防ぐことのみを目的とするならば、その方法はババを消し去ることでしょう。移動させるんじゃない。訂正困難な原因そのもの自体を消し去ることです。
ばかか、そんなことができるか。そんな単純な話じゃない。
その通りです。その原因をつぶしても、つぶすことで生まれたきっと別の新しい種が撒かれます。
果実の摘果じゃないんです。人間です。その一個を防げたとしても、瓦解した価値観はより多くの悲劇を生みます。
哀しくなった、痛ましい事件だったなどの感想ならともかく、
結局誰が悪い、こうすれば防げたなどと、断片的で不完全な情報しか持たない持ちえない第三者が何をどうこう具体的なものを模索したところで、解決策など何も出てはきません。
当事者でも関係者でもない、報道されたorネットで拾った程度のことしか知れない人間が、正しい分析をしようとか真実を見極めようとかそれ自体が的外れ。無理です。その時点でとんちんかんです。
じゃあ、悟ったふりして他人事のような顔をしていろと?この偽善者が、と。
語弊、誤解を承知で言います。その通りです。
この事件を知って、見て、聞いて、感じた気持ちや揺れた心は決して無駄じゃないでしょう。
ただ、誰が悪かったとか、どうしたら防げたとか、少女の気持ちを理解したいとか、真剣に考えても、答えなど出ません。
はっきり言って時間の無駄です。そんなことしてるくらいなら、自分の回りの人を少しでも笑わせたり、一つでも多くの幸せを探した方がはるかに有意義です。いえ、価値観の話なのでそうとも言い切れませんが。
でもせめて、自称評論家や教育の要職の方々には、それで自分がすっきりしたいだけなのか、誰の何を思ってそう言うのか、くらいは少し立ち止まってもらいたいものです。
今回の悲しい事件を防げる、社会の仕組みや理論や理屈、大歓迎です。私もそれを望んでやみません。ぜひ、実現させてほしいと思います。
しかし何の完璧な理屈やアルゴリズムを論じたところで、少女は戻ってきません。
命の大切さを教える教育。
無駄じゃないです。絶対必要なことです。でもそれだけじゃどうにもならないことだってあるんじゃないでしょうか。
話せばわかる。諦めなければ想いは届く。
否定はしません。初めからその姿勢を持たない者など、尊重に値しません。でもそれだけで全部がどうにかなるのでしょうか。その想いが届くまでに、どれだけのものを失うのでしょうか。
願望と、現実と。誰も責任など取れません。
すべてを理解などできません。
自分には完全に他人事で、それじゃあきっとダメだけど、
ある意味ではこれは他人事なんだと理解することも、少しは必要なのではないでしょうか。