いつかの現在地

2019/8/30引越し

伸びた枝、折れた針の行方


その花は上を目指して折れて曲がった。
場所を変えても戻らない。 

その石は流れの中でも揺るがない。
不動に見えてて削れて歪んだ。


歪みを制するのは中立や中性じゃない。もちろん人間サイズの話。
歪みに立ち向かうなら自分もまた別の方向に歪むしかない。例えそう望まずとも、揺らがずとも、貫き通したと思えども、気付いた時にはその身は傾いでいる。川の流れの石のように。


歪みの連鎖。巻き込まれて巻き込んで。悪なき悲しみは受け継がれていく。

苦難や過酷が成長を生むとは限らない。変化が好ましいものとも限らない。無理に使った針は折れ、働きを失う。

抗わず受け入れることが自然なんじゃない。あらがうもあらがわずもどちらも自然。






隣の席の子が咳をしている。
気が散って勉強に集中できない。でも、わざとやっているんじゃないって分かってる。

場所をかえる。その授業が終わるまでは我慢する。
だって、「仕方がない」じゃん。
それが普通で立派な立ち振る舞い。


でも、それが「場所をかえられない」ものだったら。「自分の時間を侵すほど長く続く」ものだったら。
「仕方がない」で済ませられますか?納得、できますか?



それはしばしば、日常の中で遭遇する光景。
職場での人間関係であったり、子育てであったり、介護であったり、精神疾患の人を支える場面であったり、戦時であったり。

「仕方がない」という事実を知っていながらも、それだけでは抑えられない心の動き。イライラする。つい外へ吐き出してしまう。抑えられない。
いやそれあなたのせいでもない。 だってそう。その心の動きも「仕方がない」ものだから。

どちらも人間。
どちらも仕方がない。

さぁどうする。この「仕方がない」。誰が受け持つ。


日常なら、友人や先輩、少し離れた人たちが手分けして持ってくれる。彼らは遠いからこそ、いつまでもじゃないからこそ、その重みを受け取れる。
あるいはカウンセラーが受け取ってくれる。彼らはその限られた枠組みの中だからこそ、やわらかで鮮やかな受け答えができる。




閉ざされた世界なら。

「仕方がない」が「仕方がない」を生み、互いが互いに傷を深めていく。
その中で育った小さな木は、彼らを支えようと枝を伸ばす。他より長く、他より広く。
ふと気付くとそれらはいなくなっていた。残されたのは不安定に伸びた枝葉だけ。雨の重みでたやすく軋み、風に吹かれて大きく揺れる。そこに生まれた新たな「仕方がない」。

それすらも内包して自然はある。




支えはしない。手も差し伸べない。ただ祈る。

その木が幸せでありますようにと。