「誰も悪くない」
「誰も悪くない」とは、少なくとも自分が知る限りで最も救いのない言葉。
その状況は日常の中にごく自然にありふれているけど、原因や責任、理由の元に「都合のいい」形へと作りなおされ、人々に吸収されていく。
その「都合のよさ」、もとい、ヒトの認知機能の歪みも論理的思考の限界も、当然かつ自然なものであって欠陥でも愚劣でもない。
ここは、統制された実験室の中じゃない。
100点の因果は見つけられない。見つけたと言えばその断定は誤りになる。
「都合のいい」形への鋳造は必要。数億年かけて見つける完璧な答えは不要。
「答え」とは思考の終了。可能性の放棄。 それが必要。
間違える人、信じ込む人、たしなめる人。みんな同じ高さ。同じ輪の中。
誰一人として飛び抜けちゃいない。飛び抜ける必要もない。低も高も優劣もない。
そんな世界。
「誰も悪くない」
「じゃあこの痛みは?この苦しみは?」 どこへ向けたらいいの?
と問われた。
「誰も悪くない」
そう答えた。
それはこう聞こえた。
「誰も悪くない。」 だから、受け入れろ。だから、あきらめろ、と。
そう聞こえた。
そしてみんな受け入れた。
誰も傷つけなかった。誰も傷つかなかった。