いつかの現在地

2019/8/30引越し

思考停止な人々

どうしてそこで考えるのをやめるんだ?

「愛」とか「想い」とかっていう理由をつけて、考えることをストップしてしまう人たち。


いろんな話を聞いて、いろんな人と話していると、
社会で元気にやってるのはみな馬鹿で、都合がいいやつらばっかりなんじゃないかと思えてくる。

いい加減に思考停止して、思い込んで信じ込んでいるやつが、
多くを人のせいにして、たまに自分が悪かったと反省する程度のやつが、

実際、適応的に生きていける。



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ヤフーのニュースのコメントに、「そうかそうか」と、ある宗教団体のことを揶揄するものがよく付けられる。

僕が直接その団体から何か被害を被ったわけではないし、ネット上に散らばるいろいろな噂や出来事を知らないわけではない。

ただ、
その会員が出ただけで「そうかそうか」とコメントしている自分の行動それこそが、
自信が揶揄して嫌っている、『宗教じみた執着や集団に乗っかった決めつけ』だということに、彼らは気付いていない。

そして、実際彼らのような偏見や思い込みを持った人たちの方が、社会では平然と、良く言えば「強く」生きていける。




すべての可能性を考え、吟味検討しようとしたなら、
それは到底誰に出来ることでもなく、

結局はどこかで妥協し、エネルギーを消耗する。


それだったら、「良さそうな方」や「それっぽい方」を選んでいった方がずっと効率的だ。
そんなわけで、進化学的にもその生きていく上で効率的な「思考停止」は、そもそも人間に備わっている。

それが良いとか悪いとかではなく、思考停止も偏見も当たり前のもので、生きていく上で必要なものでもある。



マスゴミ
「在日」
情報弱者
「○○厨」


そりゃあ、敵を作ってしまった方が分かりやすいし、

何より、決めつけてしまった方が「ラク」だからね。


それは人間の自然な行動。思考パターン。
悪いとか馬鹿だとか、そういうことでない。

ラク」によって生まれた時間や余裕で、何か他のことに打ち込めるから。
むしろ効率的。適応的。



ただ、そういう風にはいられない人もいる。

彼らは、決めつけられない。
でも、少しくらい間違っていても決めつけないと、先には進めない。

正しい答えを探してずっと足踏み。
結局、非適応的。

そういう人たちは、精神疾患を患ってしまったり積極的に外に出ていかないから、社会で出会う人たちのほとんどは、前者。
と、少なくとも僕は感じてしまう。


…でも、まぁ、後者も、
結局のところ、「決めつけない」ことに囚われているだけなのかもしれないな。