いつかの現在地

2019/8/30引越し

一つの終わりを終えて



14日早朝。祖父が永い眠りについた。


その一週間はとても長かった。

初めて体験する家族の死。そりゃあいつかはそういう日が来るってことくらい、中学生の自分ですら分かっていた。しかし、やっぱり実際のそれは実際にそうなってみないとわからない。そうなってみて、少し分かった。


施設から連絡があったのが15時過ぎ。祖母を乗せて病院へ向かったのが16時過ぎ。祝日で人の少ない救命救急センターの、一番奥の一室に祖父は横たわっていた。そこには施設から付き添った父と母がいて、涙ぐみながら声をかける祖母を後ろから見つつ、私はやはりどこかで冷静を装っている自分を感じながら、まだ温かいその手を握った。

口には見たこともない人工呼吸器が取り付けられていて、ドラマで見たことのある心電図が一定の波形を描いていた。
呼吸と心臓が一時間もの間停止していたため、脳や内臓の損傷が大きく、もう意識が戻ることはない。いわゆる脳死の状態であると聞かされた。呼吸器によって人工的に胸が上下し、投薬によって心臓が動いているがいつ止まってもおかしくない状態だと説明をしてもらった。

途中で仕事を抜けてきた妹、遠方から帰ってきた兄も病室へ集まり、まるでいつものお茶の時間のような空気が流れた。
まぁもってあと5分か10分だろう、という電話を受けて急ぎ集まった家族たちを尻目に、祖父はこともあろうに自発呼吸を開始した。看護師さんも少し驚いていた。

運び込まれて3時間を経過し、時計は20時を回ったが、思いのほか状態が安定してしまったため、私たち家族は、付き添いに残る母のみを置いて、いったん家へ帰ることになった。
久しぶりに家族が集まったしということで、ファミレスで遅めの夕食をとった。不思議なくらいに穏やかな時間だった。

家へ帰り、風呂を沸かし、ひと段落ついたころには0時を回っていた。父は母と入れ替わるため病院へ向かい、兄は再び遠方へ帰って行った。下のこたつで眠りに就き、2階の母からの着信で目を覚ましたのが午前3時半。氷点下6度の月明かりの夜道を母の運転する車で、再び病院に到着したのが午前4時。



さっきよりも少なくなった呼吸と、映し出される血圧、心拍数。手も足も冷たく、肌の色も赤みを失い、いよいよ終わりが近づいているのだということを感じた。早番の仕事前に病院へ寄った妹も病室に到着した。祖母を連れにもう一度家へ戻ろうとした父を、看護婦さんの助言もあって引き留めた。その数十秒後、私たち4人が見守る中、祖父の心拍数が途端に下がり始めた。それからはあっという間だった。見る見るうちに血圧がなくなり、波形がまっすぐになった。死んだんだと、分かった。午前4時20分。祖父は私の日常からいなくなった。

先生を呼んできますと看護師さんが去った後も、呼吸機によって息を続けるその姿、魂なき抜け殻が、なんとも空しく、もう戻らないんだなという哀しさを、真に感じた。一方で、ここで働く人たちにとっては、この特別が、日常なんだろうと、それはまた難しいだろうなと、思った。

毛布を取りにもう一度家へ戻り、長々と頭を下げ続ける病院スタッフさんたちに送られながら、空が明るくなり始めたころ、祖父の遺体は家へ帰ってきた。入れ歯の装備も間に合った。


それからは、またあっという間だった。さまざまなところへ電話を入れ、火葬場や葬儀の手配、組合の人たちへのあいさつ。部屋の掃除。テーブルをつなげ、部屋を準備。葬儀費用の確保。葬儀屋さんとの打ち合わせ、今後のスケジュール、訪れる方々へお茶を出し、菓子を買いに行ったり、ストーブの灯油を手配したり、駐車場の手配、会社への連絡、各種書類記入、写真選び等。多分書き忘れていることももっとある。私がやったことはほんの一部だけど、何かと問題のある伯母が帰ってきたこともあって、余計に忙しかった。

通夜、出棺、告別式、精進落とし。初めてのことばかりで忙しくて、眠かったそんな3日間。


出棺のとき、母は号泣していた。母がこの3年間、それ以上の間、ほぼすべて、祖父の介護をし面倒を見ていた。その間仕事もずっと休んでいた。しんどかったり、面倒くさかったり、もういやだと投げ出したくなったり、そんなこともあっただろう。だけど、「おじいちゃいつもわたしを呼んでくれて可愛いよ」と話していた、笑っていた。おじいちゃの方も一番母を頼っていた、信頼していた。だから、そんなにも、涙が溢れてくるんだろう。
そんな母の背中を一緒に泣きながらさする伯母。お前じゃねーよと思った。生きているうちにしてあげられることなどたくさんあって、それを知ることも分かることもできて、なのに邪悪だと決めつけ、なにもしなかった、会いにすら来なかった、お前が。そりゃ違うだろうと思った。きっと妹もそう思ってた。思って黙って見ていた。

兄の書いた弔辞はみんなの涙を誘った。兄も泣いていた、妹も泣いていた。そうでなくとも、何度も目をつむって手を合わせる時間があった。長々と手を合わせる者、涙を流す者。さまざまだった。


ふと、私は、何を伝えたいんだろうと、少し考えた。考えて、考えたけど、やっぱり特になかった。

そりゃそうだ。死んで今更この身体に、骨に、かける言葉など、私にはもうない。だってもう十分伝えたから。本当にそう思った。


去年1年間はずっと一緒にいた。一緒のこたつで私が勉強する前で、おじいちゃはドリルを頑張ってやっていた。
まだご飯じゃないわ!と祖母に怒鳴られて戻ってきたおじいちゃと、やれやれおばあちゃはうるさいなぁと笑い合うことができた。
目が見えなくなってからも、「ゆうちゃんだよ」 そういって声をかけると、おじいちゃは嬉しそうに笑った。
働き始めて遠くに住むようになってからも、週末はほとんど毎回帰ってきて顔を見れた。日曜夜、帰る私に「もう行っちゃうの?身体に気を付けてな。」と見えない目で見送ってくれた。私も手を振りかえした。


私は、祖父としっかり一緒の時を過ごせた。そして悔いもなかった。これは多分相当に幸せなことなんだと思う。分かってたって誰もがそうできるわけじゃない。次はどうか分からない。



家族のみんなはもう忘れてしまってるかもしれないけど、祖父が家族みんなから白い目で見られ、悪者扱いされ、一方的にのけ者にされていた頃もあった。確かに、間違いなくあった。それは忘れてはいけない。いや、忘れてもいいと思うけど、私は忘れない。

解決策はもう終わることしかないと思っていた。こんな酷い目に遭って、思い出すら汚されていってしまうのであれば、せめて早く終わりを迎えてほしい、本人のためにも、周りのためにも。
真剣に、そう思い、願っていたころもあった。早く死んだ方がいい。それが救いであるとすら思った。冷静に。淡々と。そう思っていた。


いま終わりを迎えて、振り返って、だから思う。
だから言う。その惨状を見て、理不尽を見て、必死に、冷静に、願って探して諦めて、それがベストだと、哀しくも本当にそう思っていた過去の自分たちに。


はずれたよ。そうじゃなかったよ。
どの私だって、真剣に、頑張って考えたけど、やっぱりちょっと足りなかったね。景色が少し、狭かったね。


それは、私たちが思っていたよりもずっと、幸せな終わりだった。

それまでの痛みや過酷や理不尽を、終わりよければすべてよしで片づけるわけじゃないよ。やっぱりあれはひどかったよ。かわいそうだったよ。でも、


それがあってもなお、やっぱりここまで生きて正解だった。この終わりが迎えられて良かった。本当にそう思うよ。

おじいちゃがそう思っていたかどうかは、別の話。次回もそうなるとは限らないけれど。


葬式の間、一筋の涙も流さなかった私を兄は冷たい人だと笑っていたけど。
多分そうじゃない。私は、一緒にいてあげたいと思って、一緒にいてあげられたから。辛い中で生きてたことも見てきたから。いまさらそこで涙を流して叫ぶほど、後悔なんてなかったんだよ。きっと。


だから、今、私が祖父へ送りたい言葉はこれだけ。


「いままでお疲れさま。そしてありがとう。ゆっくり休んでね。おやすみ」



おやすみ。おじいちゃ。